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浄土宗大本山  くろ谷金戒光明寺    京都市左京区黒谷
                     市バス熊野神社前東へ歩8分
病院の診察ついでに訪れた。病院から歩8分ほどである。今回は雨の為昨年の画像を加えていますのでご了解下さい。「こんかいこうみょうじ」公式サイト
15歳で比叡山に登られた法然上人が43歳、修行を終えて1175年にここで草庵をむすばれた浄土宗最初の遺跡(ゆいせき)である。なお知恩院は上人が最後を迎えられた所である。
徳川家は浄土宗に帰依し その為光明寺は知恩院と共に手厚く保護され栄えていた。幕末の京都は騒然とし暗殺や略奪が起こり治安が極端に悪く、幕府は新しく治安維持のために京都守護職を作り1862年12月その本陣をここに置いた。当時は4万坪の敷地に52の宿坊があり千人の兵士が駐屯出来たのと御所まで2Km、粟田口まで1.5Km、二条城も近くにあり、何よりも高台であり、攻めるにも門が1個所しかなく、遠く淀川や天王山が望め、敵を見渡せた位置にあるがため城の役割を果たしたのである。
今回はその旧本陣が特別公開されていたので訪れた。 04.11.11  03.11.07


門はこの1箇所だけである。

石碑
会津藩殉難者墓所の碑が門前右手に建っている。

三門
古は1398年〜1415年建立。応仁の乱で焼失後
1828年〜1860年徳川幕府により落慶。

山門の柱
三門から見えるのは御影堂(みえいどう)です。
   

鐘楼
江戸時代のもの。

手水舎
   

御影堂
昭和9年焼失。昭和19年の先の大戦のさなかに
再建される。昭和の代表的な建物。内部撮影禁止.。

きぬかけの松
旧本陣は御堂の中から廊下伝いに入ってこの
右手にある。

旧本陣跡前の庭と門
内部は松平容保公の部屋や古地図・古文書を展示。
内部撮影禁止。

本陣跡
門の後ろが本陣跡である。残念ながら失火により
焼失。後に史実を元に忠実に復元されたもの。

阿弥陀堂
当山の中では最も古く慶長10年(1605)豊臣秀頼に
より再建。

経堂
   

宿坊
現在はおそらくここで写経が行なわれているものと
思います。立派な建物ですが建物を説明するものが
ありませんでした。

3重の塔(03.11.07)
階段の途中を左に行くと会津藩士の墓がある。今も
6月には現13代御当主と京都会津会で盛大に法要を
勤める。

慰霊碑(03.11.07)
墓地には約400名が眠っている。

会津藩士の墓標(03.11.07)
引き取り手の無い屍骸を「会津の小鉄」が子分と
共に収容し住職と共に供養して守った。